プラネタリウムスピリット(2)

 卒業論文より・・プラネタリウム製作で感じたこと

 
 
(注)これは、私が大学卒業時に、プラネタリウムをテーマとしてまとめあげた卒業論文の一部「付録:プラネタリウム製作後記」です。原文より、内容は加筆修正してあります。

プラネタリウム製作後記

 今回製作したプラネタリウムは、高校時代に製作した1、2号機に続く3号機にあたる。  高校1年の頃製作した1号機は初めて本格的な、一般に公開して一連の投影解説をすることができる投影機として完成させた。日周運動、緯度変化を共に電動で駆動し、太陽や朝焼け夕焼け、照明などが備わり、解説席のコントローラーで自由に操作することができた。投影機はピンホール式で、直径3mの傘型ドームにおよそ6300個の恒星を投影した。
 1号機(当時そう呼んでいたわけではない)製作過程は、それまでとは全く異なるものになった。文化祭に公開して解説するのだ。中途半端なものでなく、確実に機能する立派なものに仕上げようという意気込みがあった。機械用のギヤやベアリングやモーターを初めて使った。配線もハンダ付けで接続し、トランスを使ってコンセントから電源を取り、抵抗器を使って明るさをコントロールした。これまでの、紙工作に毛が生えた程度のものから脱却し、機械構造・電気配線などがともかく一通り備わったりっぱに機能する『機械』を初めて作り上げたのである。
 完成した投影機は文化祭で立派に役目を果たしたが、機械としての投影機には様々な欠陥があって、まだまだ未熟なものだった。まず第一に強度が足りなかった。かなり太い木材で台座を組み、金属性の歯車を使ったはずなのに、どういうわけか投影機はがたがたで、お世辞にも頑丈とは言えなかった。
 未熟な僕は、オモチャ用でない『機械用』の部品を初めて使うことがせいいっぱいで、とてもその強度云々を詳しく検討する余裕はなかったのである。部品を信頼しすぎていたし、それを使いこなす技術がまだまだ確立されていなかった。ともかく、精度などのグレードは良くなかったが、軸が折れるなどのトラブルはなく、機能はした。
 1号機完成後、僕はすぐに大改良版とも言える2号機製作にとりかかった。これは恒星数を1万6千個まで増やし、原板素材にリスフィルムを使って写真作用を応用して製作するなど、かなり革命的な改造が行われているのだが、機械構造の向上も大きな課題だった。1号機でとりわけ具合の悪かったのは緯度軸だった。僕はそれを数字で検証することができなかったが、ともかく緯度軸の主ギヤが小さすぎることが原因とみて、大きなギヤを使うことにした。それからモーターなどを取り付ける部分に木材を使うのをやめて金属製にした。そのかいあって、2号機は1号機よりはだいぶ改善された。けれども満足できるほどではなかった。僕は、機械を作ることの難しさを垣間見たのだった。
 やがて大学の機械工学科に入った僕は、そこで機械設計の手法を学ぶことになった。モノを作るという立場からみたとき、大学に入って大きく変わったことは、設計を数値的に扱うことを覚えたことだと思う。たとえば支柱の太さを求めるにも、高校生までだったらカンで『だいたいこのくらいだろう』と決めていたが、材料力学の知識を使ってたわみなどをあらかじめ予測し、必要な太さを決めることができるようになったことである。2号機と3号機の間にも設計に際してその差が大きく影響している。
 だが、それは落とし穴でもあった。いままでカンでしか扱えなかったことがらを、次々に計算してきめる方法を覚えると、それを必要以上に過信してしまう傾向があるのだ。緻密に計算して得た解というものはやけに説得力があって、実物がその通りに動くように錯覚してしまう。ちょうど3号機製作半ばの僕がそんな感じだった。たとえば駆動機構の設計で、綿密に計算して、考え得る限りのモーメントやトルクを割り出し、その条件でぎりぎりの設計をして失敗したことがあった。実世界のマシンは、紙の上のそれと違い、ちょっとした大学生程度の工学知識ではとうていとらえきれない複雑なふるまいをしている。そいつをてなづけるには、経験や勘が重要なこともある。ものを完成させるという目的に立ったとき、なにがなんでも計算計算、というわけでもないのだということを感じた。
 それは、メカに限らなかった。電気の世界でも同じことを感じた。  恒星電球(スターランプ)を光らせるためのスイッチング電源の開発に苦労していた時期がある。問題を解決するため、すべての部品のふるまいを完全に把握しようと、ひたすらモデルを作ってシミュレーションに明け暮れたりした。そんなとき、ちょうど電源メーカーの設計現場で仕事に参加する機会に恵まれた。
 そこで僕にとって意外だったのは、プロが設計のかなりの部分をカンに頼っていることだった。プロの設計者が思いがけぬほど簡単に設計し、あとは実験で定数を追いつめてゆくという方法を採っていたことに僕は驚きを感じた。なぜなら僕は、プロは大型コンピュータなんぞを使って高度な理論をもとに設計、開発しているだろうと思っていたからだ。(実状を知ったとき、僕は企業秘密である核心の部分はアルバイトの僕には見せていないのだろうと思ったほどだ)実際は、カットアンドトライ中心の、思ったよりずっと原始的な方法だったのだ。本当のところ、回路の動作考察、理論面に関しては僕よりも遅れているところがあって、こんなものかと幻滅した部分もあった。しかし、理論と実際の一致が悪いとなれば、実験が最善かつ確実なシミュレーションとなるわけで、この会社での実験・経験第一主義は速く確実に製品を開発するためにはそれなりに理にかなったものなのだろうと認めざるを得なかった。長期的な見方で工学の進歩を考えたときには疑問符もつくが、プロとして最短コースでものを仕上げる上では、ある意味の合理的な手法なのだ。
 総じて、機械にしても電気にしても、新しい技術や部品などを使うには、使用経験がなければけっしてうまく使いこなせないことを痛感した。ギヤにしても、トルク強度を計算する方法はいくらでも知ることができるし、たとえ経験がゼロでも数式的には合理的な設計ができるはずなのだが、実際に作ってみると全く気がつかないところに必ず落とし穴が潜んでいる。思わぬ振動や騒音があったり、まさかと思うネジがゆるんでしまったりといった具合だ。振動や騒音を理論だけでどれだけ正確に予測できるだろうか。精密なモデルを立ててコンピュータを使って解析すれば別かもしれないが、普通の計算では予測できないことが多すぎる。そこをカバーするのはいい加減ではあるけれどもカンであって、そして『実験』という最高のシミュレーションを挟んだフィードバックである。カンは唯一経験によって培われる。しかし一方で、経験ばかりを重視していると、新しい事柄に対応することができなくなる。既存の技術のなかでしか生きられなくなる。カン、これはある面確実ではあるけれども、技術者としては1流ではない。伝統工芸に近いものだ。伝統工芸はときに驚くほどの画期的ノウハウを持っていたりするものだが、これは数百年もの歳月をかけてやっと確立されたものだ。経験だけでやろうとするとそういうことになる。能率が悪いのだ。よりスピーディに、合理的に技術を開発するには、実行してなぜこうなったかを考えるという科学者精神に基づいて、どうすればよいかという職人的なカンを働かせるのがいい。1流の技術者は、理論により真理をかぎわける科学者と経験とカンを持つ職人が合体してできあがるものだと思う。
 PLAN DO SEEという言葉がある。PLANは計画 DOは実行 SEEは考察である。つまり、計画(設計)し、すみやかに実行し、そして結果を考察せよという意味で、技術者の心得としていわれている文句だ。この3つのどれもが欠けてはならないが、なかでもSEEが核となるのだという。SEEで得た考察を再びPLANに生かす。このループを繰り返すことが、技術開発の最短距離になると言っている。
 かつて飛行機の初飛行を数学者ラングレーと自転車屋ライトが競っていたとき、世論は専門家で高度な理論を持ったラングレーが成功すると信じて疑わなかった。かくして完成した飛行機は群衆の前であっという間に分解してしまった。一方ライトは、シロウト呼ばわりされながら、実験と考察を地道に積み重ねた。実験という、手間はかかるけれども確実なシミュレーションによって少しずつ実績を重ね、その結果を細かく分析して次の設計に役立てた。そしてついに人類初の動力飛行という快挙を成し遂げたのだ。これは理論だけで作られたものの脆さを如実に物語り、実験と考察の重要性を物語っている歴史的エピソードである。ラングレーはDOが欠けていた。DOがなければSEEもできない。よって飛行機が分解することを予測できなかった。一方僕のアルバイトした会社ではSEEが欠けていた。考察をしっかりしないと新しい技術に分け入ることができない。だから新規技術を開発できず、既損の技術に安住するしかなくなる。あるいは他社が開発した新技術を頂戴するか。これではさみしい。ライトはおそらく誰にも教わらずにPLAN DO SEEを忠実に実行していたのだ。
 これからもこの3本柱が重要であることは変わらないだろう。ただ、ある面DOがやりづらくなるだろう。特に巨大科学といわれる分野ではそうだ。スペースシャトルや高速増殖原子炉をそう簡単に何回も実験するわけにはいかない。お金がかかるし危険もあるからだ。そうした面では、DOの持つ機能をPLANで肩代わりしてゆかねばならない時代なのかもしれない。コンピュータシミュレーションなどでだ。しかしこれは困難で苦しいことだと思う。
 モノというものは人間と違って正直で、融通がきかない。ダメな設計によるものは決してうまく作動してくれない。泣いて拝んでもダメだ。僕はプラネタリウムの製作を通じてそうしたある種の冷酷さと向き合い、モノ作りの難しさを自分なりに体感してきた。それゆえ、PLAN DO SEEの重要さが分かってきたところだ。プラネタリウム製作で得た一番大きな教訓は、『理論と実践の両立』の重要さである。
 以上で本卒業論文を終わりたいと思う。この後記は文字どおり後記であって、『論文』のしめくくりとしてはいささかふさわしくない文章かもしれない。しかし、格式ばった堅調の論文だけでは語り尽くせないことが多々ある。どうやってプラネタリウムを作り上げたのか、いかにして必要な知識と技術とノウハウを確立してきたか、その生の過程、本音を知ってもらうためにあえてこの後記をつけ加えたことをご了承ください。なお、プラネタリウム製作にあたっては、下記の様々な方々のご支援がありました。ここにあらためてお礼を申し上げます。
●日大生産工学部機械工学科実習室の先生方・・・在学中様々な箇所で機械部品の加工を快く 引き受けていただいた。
●入山製作所の入山氏・・・自宅近所の切削加工工場です。工作機械を快く使わせてくれ、様々な加工を格安で引き受けていただいた。いろいろな局面でアドバイスをいただいた。
●杉浦氏・・・自宅隣家のキヤノン(株)に勤めるエンジニアで、小学生のころからモノ作りに関していろいろ教わり、レンズなどの部品をいただいたりその影響は測り知れない。
●生産工学部学生課職員の方々・・・製作中なにかとお世話になった。ことにエアードーム製作を応援してくださり、さらに学部祭などでの公開を全面的に支援して頂いた。
●西川誠司、佐倉正幸、笛木正己、内野富夫、金沢紀応君はじめ大学、高校その他の友人の方々・・・真夏の酷暑の中での直径8mエアードーム製作作業に集まってくれ、作業をてつだってくれた。また、大学体育館や各地での移動公演でのスタッフとして支援してくれた。
●大内竹島研究室の同級生・・・卒業研究に際して作業を手伝い、幕張メッセはじめとするまた移動公演でスタッフとして支援してくれた。

  そして、卒業研究テーマとしてこのプラネタリウムの研究を認めて下さり、関連するあらゆる活動を全面的に支援して下さった大内増矩先生に厚くお礼申し上げます。

1997年6月10日